1960(昭和35)年5月24日チリ地震津波

発生日時
1960(昭和35)年5月23日4時11分
(現地時間1960年5月22日15時11分)
震源
チリ沖 (南緯38.17度、西経72.57度)
地震の規模
Mw9.5、深さ0km
日本での
津波到達時刻
1960年5月24日2時20分
日本での
津波の高さ
5.5m(大船渡)
宮古市の震度
5
宮古市の津波浸水高(T.P.上)
金浜5.6m、田老4.3m

5月24日早朝、チリ地震津波は突如として日本の太平洋沿岸を襲い、北海道、三陸などを中心に死者行方不明者139名をはじめ、家屋、耕地、船舶及び水産関係に大被害を与えました。なかでも岩手県沿岸では、津波の波高が高く、大船渡湾、広田湾、山田湾、宮古湾において5m以上の大津波となりました。この津波の原因となった地震は、南米チリのバルディビア沖で発生したモーメントマグニチュードMw*9.5の地震で、西暦1900年以降では、観測史上世界最大の地震でした。

*モーメントマグニチュードMw
地震そのものの大きさ(規模)をあらわすマグニチュード(M)。日本では気象庁が発表する「気象庁マグニチュードMj」が一般的に用いられています。しかし、気象庁マグニチュードは、マグニチュード8を上回る巨大な地震ではうまく表現できません。その欠点を補うために考えられた「モーメントマグニチュードMw」では、地震を起こした断層の運動から求めるため、大きな地震も的確に表現することができます。

高浜 壊滅した養殖施設

新川 町路上に散乱したドラム缶

高浜 漁協高浜支店付近の惨状

※写真提供:崎山 安倍実さん

津波は日本の太平洋岸全域に及び、波高が高く被害が大きかったのは比較的大きな湾で、大船渡湾・広田湾・山田湾・宮古湾であった。チリ地震の特徴は、波高が湾口で低く奥に行くに従って高くなっていることで、昭和8年は逆に奥に行くに従って低くなっている。宮古湾で湾口2.0m、中央部で3.0から5.0m、湾奥部で6mと次第に高くなっている。宮古市の被害は、罹災世帯数740、行方不明1であった (『岩手県災害関係行政資料』)
田老では役場の観測で波高3m、岸壁に積んであった木材が流失した。高浜は県道東側の民家は全て流失、西側の建物もほとんど山際に押しつけられて潰された。金浜では、国鉄山田線線路の東側は建物が全て流失または全壊した。法の脇が最も被害が大きく、波が奥まで到達した。赤前は民家が比較的高く海岸から離れているため被害は少ないが、堤防付近で波高5mが確認された

(仙台管区気象台『チリ地震津波調査報告』)-「『宮古市の記録』歴史津波 解題」より転載-

内湾の高浜地区を中心に、金浜、赤前、津軽石地区の被害が大きく、家屋の流失、漁船の流失党のほか、養殖施設が全滅した。高浜小学校の被害が大きく、復旧費は650万円であった。災害後、児童は一次磯鶏小学校を借りて授業を行った。その後、被災校舎の応急措置を行い、授業を再開したが、地区住民から校舎移転の強い要望があり、南高台に校地を決め、翌年6月20日にブロック造校舎が完成した。津軽石河口近くから高浜まで987mの国道兼用の大規模な防潮堤工事が進められ、県営3ヵ年継続事業で完成した

(宮古市(1974)『宮古のあゆみ』)。

碑が伝える災害と教訓

「大地震の後には津波が来る、外国地震でも津波は来る、潮がめだってひいたら高い所へ」

碑銘:チリ地震津波記念碑
所在地:宮古市金浜(金浜稲荷神社の下) 地図で見る
建立者、建立年:宮古市、昭和36年5月

「地震がなくとも潮汐が異常に退いたら津波が来るから、早く高い所に避難せよ」

碑銘:チリ地震津波記念碑
所在地:宮古市日立浜町(浄土ヶ浜屏風岩の下部) 地図で見る
建立者、建立年:宮古ロータリークラブ、不明

関連資料(「『宮古市の記録』震災津波」より転載)