1896(明治 29)年6月15日明治三陸地震津波

発生日時
1896(明治 29)年6月15日19時32分
震源
三陸沖 (北緯39.5度、東経144度)
地震の規模
マグニチュード8.2~8.5
震度
4程度
宮古市の震度
2~3
最大津波遡上高
28.7m(綾里湾/現:大船渡市)
宮古市の津波遡上高
女遊戸19.8m、田老16.8m、姉吉16.6m

明治29年6月15日午後7時32分、三陸沖を震源として起こったM8.2~8.5の巨大地震で、震後約35分で津波到達。第2波が最大で満潮時とも重なり、同日午後8時頃には最大打上高は岩手県気仙郡綾里村白浜(現大船渡市)で最大35.2m、三陸町吉浜24.4m、田老14.6mに達しました。岩手県、宮城県、福島県の太平洋岸を中心に死者約2万2千人、流出および全半壊家屋1万戸以上という大規模な被害となりました。

田老村の前川門蔵が記録した大津波

打ち揚げられた搬送船が家に突っ込んでいる(鍬ヶ崎町・鍬港下町)

漁船は地上に打ちあげられ、家々の道具が道をふさいでいる(鍬ヶ崎町・鍬港3丁目)

※写真出典:(写真左)宮古市「宮古のあゆみ」、(写真中・右)旧宮古測候所所蔵

田老村では地震後、空砲のような轟音が3回あり、20時20分頃激浪に襲われた。翌朝まで7回の津波があり、1千850人が死亡、生存者183人とある。下摂待は当時10戸の小村であったが、畜養していた27頭の牛が全滅、村民43名中26名が死亡した。 (「大海嘯被害録」*)
宮古町では午後8時10分頃、大津波が押し寄せ、南西に進んだ波が磯鶏石崎から北に折れて、光岸地を突いて東に進んだ。さらに屈折して鍬ヶ崎を洗った。宮古町は比較的被害が小さく戸数987のうち流失23戸・全半壊13戸、人口6千500のうち死亡12名・重傷6名としている。
鍬ヶ崎尋常小学校では、端午の節句にあたって幻灯会を催していた時に津波が襲来した。町長が生徒を学校から外出させないように指示して助かったが、在宅の子供たちの多くが死亡した。
重茂村では全村232戸のうち流失・損壊160戸、1千506人中733人が死亡、重傷51人で、当分町村として成立できないだろうとされた。姉吉では、全戸数11戸が流失し、総人口78名のうち72名が溺死、重傷者5名も死亡した。

(「大海嘯被害録」*)-「『宮古市の記録』歴史津波 解題」より転載-

宮古警察署長巡査を指揮して人命を救助するの図

重茂村の漁夫海上の漂民を船幽霊と為して救助せざる図

海嘯の惨毒家屋を破壊し人畜を流亡するの図

※写真出典:「風俗画報臨時増刊・大海嘯特集号」
*「風俗画報」は1889年(明治22年)創刊の日本初のグラフィック雑誌で、版元は東京の東陽堂。第108号~第120号は、「大海嘯特集号」として明治三陸地震津波を特集し、多くの人々に絵図による情報を与えた。

碑が伝える災害と教訓

宮古市内には、明治三陸地震津波の被害を後世に語り継ぐための記念碑が多く建てられています。二度と繰り返させてはならないという強い思いが込められています。

碑銘:海嘯記念
所在地:宮古市崎山女遊戸地区  地図で見る
建立者、建立年:女遊戸一同、大正7年、旧5.5

碑文:明治二十九年旧五月五日大海嘯のため本部落21戸中流失19戸、溺死者63名ありて、未曽有の惨状を極めたり。本年は恰も二十三周年に当たるをもって部落民協同建立。

碑銘:海嘯記念碑
所在地:宮古市蛸の浜町(心公院)  地図で見る
建立者、建立年:鍬ケ崎町有志者、明治41年11月

碑文:(略)黄昏地揺ること二回、やがて海上遙かに轟然たる響を聞くや数丈の怒濤、俄然打寄せ来たること三回、その二次最激甚、たちまちにして阿鼻叫喚、修羅の巷は至る所に現せられ、(中略)我が鍬ヶ崎町は死者128人、流失277戸、船舶276艘を失う。まことに悲惨の極というべし。この時あたかも当町小学校に幻燈会あり、児童及びその父兄等参集しために、海嘯の難を免れし者多かりしは不幸中の幸というべし。ああ天地地妖の測り知るべからざる。まことに恐るべく、また警むべし。今ここに13年忌に当り罹災者を弔し、碑を建てて後に伝う。

大海嘯被害録*:「風俗画報臨時増刊第118号 大海嘯被害録」(明治19年7月10日発行)。『風俗画報』とは1889(明治22)年創刊の日本初のグラフィック雑誌で、版元は東京の東陽堂。第108号~第120号は明治三陸地震津波を特集している。