宮古市を襲った、
明治以前の地震・津波災害

※本ページの被害状況に関する文章は、「『宮古市の記録』歴史津波」より転載。

貞観11年5月26日(869年7月9日) 貞観地震津波

発生日時
貞観11年5月26日(869年7月9日)
震源
三陸沖北緯37.5~39.5度、東経143.8度
地震の規模
マグニチュード8.3
被災地域
三陸沿岸(北緯37.5~39.5度、東経143.8度)

城郭・倉庫・門櫓・垣壁など崩れ落ち倒壊するもの無数。津波が多賀城下を襲い、溺死者約1千。流光昼のごとく隠映すという。三陸沖の巨大地震とみられる。[死傷者]溺死者約1千人

夜、M8.3ないし8.4以上と推定される巨大地震とこれに伴う津波が陸奥国(東北地方太平洋側)で発生し、甚大な被害があったことが『日本三大実録』に記されている。地震に伴う発光現象があり、夜間に巨大地震が起きたと見られる。この地震によって、家屋の倒壊、土地の地割れ、多賀城内の城郭・倉庫・門などが倒壊。多賀城下にたちまち押し寄せた津波により、溺死者千人、土地・建物・道路など壊滅的な被害を受けた。

慶長16年10月28日(1611年12月2日) 慶長奥州(三陸)地震津波

発生日時
慶長16年10月28日 (1611年12月2日)
推定震源
北緯39.0度、東経144.4度
被災地域
三陸沿岸および北海道東岸

三陸地方で強震。震害は軽く、津波の被害が大きかった。伊達領内で死者1783人、南部・津軽で人馬の死者3千余人という。三陸沿岸で家屋の流出が多く、北海道東部でも溺死者が多かった。1933年の三陸地震津 波に似ている。[死傷者]死者1783 人(伊達領内)、死者3千余人(南部・津軽)、溺死者多数(北海道東部)

三陸地方で大地震があり、仙台・盛岡・津軽・松前藩領に津波が来襲した。昼八ツ時(14時頃)大津波で門馬(笠間カ)・黒田・宮古が騒動し、17時頃大方水が引いた。海辺通は一軒もなく波にとられ人が多く死に、家をとられた人は路頭に迷った[宮古由来記]。地震が3度あり次に大波が来て、山田は房ケ沢まで、織笠は鈴堂まで波が来た。鵜住居・大槌・横須賀で800人、船越で50人、山田浦2人、津軽石で150人が死亡し、大槌・津軽石は市日のため数多く死亡した[盛合家文書]。

延宝5年3月12日(1677年4月13日)

東北地方で20時頃から明け方まで20度余りの地震があり、被害が出た。17日宮古通へ大波が寄せ、波にとられた家数は鍬ケ崎1軒・金浜12~13軒、高浜1~2軒、赤前5~6軒が波にとられたと宮古代官所より報告があった[雑書]

元禄12年12月8日 (1700年1月27日)

地震がないのに津波で家をとられ、津軽石へは久保田渡りまで、法の脇は稲荷(神社)の下まで津波が到達した[盛合家文書]。鍬ケ崎では、8日真夜中に津波が打ち寄せ、出火して20軒焼失、13軒が波にとられた[雑書]。この津波は米国北西海岸シアトル近海で発生した地震によるものであることが、米国地質調査部のブライアン・アトウォーター氏と日本の活断層研究センター佐竹健治氏らの研究により明らかになっている。

寛延4年5月2日(1751年5月26日)

大潮が差し込み釜石浦嬉石で13軒、両石浦で15軒、大槌浦安渡60軒、織笠浦20軒、山田町大沢浦50軒が床下浸水、田畑苗代・町小路まで潮水が上がった[雑書]。地震があったとは記されていない。

宝暦12年12月16日(1763年1月29日)

20時頃大地震それより1時間ばかりして大波が川へ押し込み、海辺の人々が大いに驚き山へ逃げた[幾久屋文書]。

明和9年5月3日(1772年6月3日)

正午頃に大地震が発生し、地割れがして水がわき出る。人馬多く死す[須賀原家文書]。茂市村・田老村・長沢村・川井村・箱石村・重茂村で大岩が崩れるなどして死者が出る[雑書]。

寛政5年1月7日(1793年2月17日)

地震は、寛政5年正月7日12時頃で、寛政南三陸沖地震と言われる。宮城県はるか沖の海溝付近で発生し、大きな津波を伴った。地震史料により盛岡から福島に至る内陸部で震度5、宮古・大槌は震度4と推定される。昭和8年三陸津波・昭和58年日本海中部・平成5年北海道南西沖の津波と同等の規模と考えられている(『日本歴史災害事典』)。
12時から14時頃まで大地震で津波が押し寄せ、大槌通代官所管内で被害が大きかった。家屋の流失・損壊が、両石浦で79軒・死者9人[雑書]。宮古では、大地震があり津波が寄せ、海辺通は大騒動でたいへんであった[幾久屋文書]。川津波が3・4度きて山に逃げた。藤原・磯鶏・宮古には水が上がらなかったが、2月中まで余震があり宮古・藤原などでは山に小屋をかけて避難した[古実伝書記]。

天保8年10月11日(1837年11月8日)

真夜中に津波が来て、和泉町(現陸前高田市)の鮭川留が押し破られ、赤崎(現大船渡市)の御塩場廻りの土手が破られる。大地震もないのに津波があり不審である[気仙沼小嶋家文書]。
チリ南部沖を震源とする遠隔津波であった(大船渡市立博物館『三陸沿岸地震津波年表』)。

天保14年3月26日(1843年4月25日)

午前6時頃大地震あり、海辺にことごとく津波が押し寄せ鍬ケ崎も浸水する[浮世考がい記]。津波が寄せ、赤前で家に損害があり、4月17日まで余震があった[長沢災異記]。

安政3年7月23日(1856年8月23日)

13時頃地震、間もなく津波で宮古代官所前の道に水が上がった。鍬ケ崎の小島あたりから大鍬ケ崎一帯まで浸水した。鍬ケ崎村・高浜村・金浜村・津軽石村・赤前村で居家108軒、納屋32カ所が流失または損壊した[内史略]。「青葉の節は津波なきもの」と聞いて油断していたところに津波に襲われ、寛政5年正月の津波くらいに水が上がった[奥南見聞録]。

*本コンテンツでは、宮古市(2014)「『東日本大震災 宮古市の記録』第1巻《津波史編》第2部【資料編】歴史津波」を「『宮古市の記録』歴史津波」と略して記載しています。