1933(昭和8)年3月3日昭和三陸地震津波

発生日時
1933(昭和8)年3月3日2時31分
震源
三陸沖 (北緯39.23度、東経144.52度) 
地震の規模
マグニチュード8.1(Mj=8.1)、深さ10km
最大震度
震度5(北海道から静岡県までの太平洋岸)
宮古市の震度
5
最大津波遡上高
28.7m(綾里湾/現:大船渡市)
宮古市の津波遡上高
姉吉18.2m、田老9.6m、女遊戸8.2m

明治三陸地震の発生から37年後の昭和8年3月3日午前2時31分頃、明治の地震津波とほぼ同じ地域で、三陸沖を震源とするM8.1の地震が発生しました。地震発生から約30分〜40分後には津波の第一波が押し寄せ、岩手県気仙郡綾里村(現大船渡市)では遡上高海抜約28.7メートルの地点まで津波が到達しました。三陸沿岸と北海道南岸の被害は死者・不明者3,064人、流出家屋4034戸、倒壊1817戸、浸水4,018戸に及びました。

鍬ヶ崎海岸通に打ち上げられた冷蔵運搬船

宮古町(築地を望む)

浜辺に積まれた流木の間をさまよう田老の村人

※写真出典:(左より)旧田老町所蔵、旧宮古測候所所蔵、旧田老町「防災の町」

宮古町では町の中央を貫流する宮古川(閉伊川)を遡って一丈(約3m)の津波が押し寄せ、鍬ヶ崎・新川町・藤原・磯鶏村海岸一帯が床上浸水した。田老村は戸数600戸中、残ったのは小学校・役場・寺院・住家3戸で荒野と化した。(「験震時報第七巻」)

-「『宮古市の記録』歴史津波 解題」より転載-

岩手県では県行政対応として被災地以外の警察署に非常召集命令・各警察署長に逐次応援命令・知事による県民への告諭を発する(告諭の内容不明)。多くの村落が将来いつ来るかわからない津波災害に備えて高地移転し、防波堤を作る等の対策をした。 減少した住民を補うために住民募集を行い、補助規則も制定した。(「岩手縣昭和震災誌」)

-総務省消防庁データベース「現在までに語り継がれる『災害』について」より転載-
▶https://www.fdma.go.jp/publication/database/database009.html

碑が伝える災害と教訓

「高き住居は児孫の和楽、想へ惨禍の大津波、此処より下に家を建てるな」

碑銘:大津波記念碑
所在地:宮古市重茂姉吉地区 地図で見る
建立者、建立年:宮古市、不明

碑の下段には「明治29年にも昭和8年にも津波はここまで来て集落は全滅した。生存者はわずかに明治2人、昭和4人のみ。幾年たっても用心あれ」と刻まれている。

地域では教訓を守り通し、昭和三陸地震津波以降、現在までこの津波石より下に住居はありません。東日本大震災時には津波石の約50cmまで津波が迫りましたが被害はありませんでした。

「一、大地震の後には津浪が来る
一、地震があったら此処へ来て一時間我慢せ
一、津浪に襲われたら何処でも此の位の高所へ逃げろ
一、遠くへ逃げては津浪に追付かる
一、常に近くの高い所を用意して置け」

碑銘:大海嘯記念
所在地:宮古市田老(田老一小の西側) 地図で見る
建立者、建立年:不明、昭和9年3月

この碑は過去の津波の浸水範囲よりも外に建立されており、東日本大震災時にもこの場所までは津波は到達することはありませんでした。田老地域は昭和三陸地震津波後に巨大な防潮堤を建設し、チリ地震津波や十勝沖地震津波から町を守ってきました。東日本大震災の津波は防潮堤の高さをも越えて多くの被害をもたらしましたが、防潮堤がなければ、この場所まで津波がやってきたかもしれません。