75年ぶりの異常乾天といわれた気象状況下で発生したフェーン現象により、宮古地方では午後2時頃には平均風速25.1m、瞬間最大風速44.3mの強風を記録。県北や沿岸地方に発生した山火事は飛び火し燃え広がり、宮古市、新里村、田老町をはじめ久慈市、岩泉町、田野畑村、普代村、山田町に被害をもたらし、3日間も延焼する史上最大の山火事となりました。(農林省林業試験場編「林業試験場研究報告172号」昭和36年5月末の三陸沿岸大火による森林被災状況についての調査報告によると、「県下14カ所から発火し推定焼失面積は約26,000haに及び、その被害の大きさは180年来の大火災だった」)。
宮古地域では田代地区から津軽石地区まで延焼し、特に崎山地区が大きな被害を受けました。崎山地区には忘れることができない惨禍の苦しみが刻まれている2基の三陸フェーン大火記念碑があります。女遊戸集落内に立つ記念碑には「天災の恐ろしさを後世に伝えるため」とし、「地を駆けるように、忽(たちま)ちこの部落を襲い一瞬のうちに全戸焼失野も山も全く焼土と化した茫然自失‥(中略)‥すぐ力を合せて復興に立ち上がった」と刻まれており、災害の経験を今に伝えています。
猛火に包まれた山(岩船山から、昭和36年5月29日)
崎山小学校に避難した被災者(昭和36年5月30日)
※写真出典:宮古市(1974)「宮古のあゆみ」
田老地域は市内最大の被害地で、岩泉と宮古の南北両方向から延焼し、なかでも田老鉱山と青野滝、畑、樫内の3集落は全焼し、大館山方面に見えていた火が次々に広がり、市街地を三方から囲み、逃げ道は海しかない状態となりました。6千町歩にわたる山林が一瞬の間に焼き尽くされ、旧田老町全町の3分の2に当たる58.6平方キロメートルを焼失。鉱山施設、住宅、学校が焼けて、“閉山・失業はまちがいなし”と鉱山の従業員は思ったと言います。1936(昭和11)年に開業した田老鉱山は5月29日午後7時頃に焼け落ちました。(13億円の被害を出した田老鉱山は、11億3千万円を投じて同年12月26日に復興式をもって近代的に生まれ変わりました。)
死亡1名、重傷1名、住宅全焼519戸、640世帯、被災者2,449名、山林被害5,860ha、大家畜被害45頭、小家畜被害122羽、漁船被害78隻、被害見積額21億1,845万円(「宮古市地区防災計画」)宮古に到着した陸上自衛隊岩手駐屯部隊約百数十人が消防団と協力して消火にあたり、焼け跡の片づけに活躍しました。県では宮古市、旧田老町など1市2町2村に災害救助法を適用しました。膨大な被害を出した大火が収まったのは6月1日の午後5時、田老の消防団が非常体制を解いたのは6月4日でした。(「防災の町」)
『岩手日報』1961年5月30日(朝夕刊)
女遊戸自治会(1991)『三陸フェン大火あの悪夢から三十年』、「おっかなかった五月二十九日-罹災児童の作文-」より。
-合 掌-
山火事に追われて にげたっけ。
泣きながら にげたっけ。
砂と 火の粉を かぶりながら にげたっけ。
歯を くいしばって にげたっけ。
- あんな おそろしかったことは なかったと -
たすかった いのちを みつめた心に
残ったものは なんにもなかった あの日。
- 昭和三十六年 五月 二十九日 -
あすから ねる家がないんだと 思った時の自分。
あすから たべるものが 何にもないんだと 思った時の自分。
お父さんも お母さんも 皆うちしづんでいたっけ。
※
あれから 一年たった 今。
私は 祈りたい気持で いっぱいだ。
-とおる・なからい-
<参考文献>
田老町(1971)『防災の町』、田老町(1990)『田老生誕100周年記念誌』
宮古市(1974)『宮古のあゆみ』