災害からの復興タイムライン

宮古市内を流れる閉伊川は、北上高地の区界峠に源を発し、山間部を蛇行しながらJR山田線、国道106号に沿って東流し、途中、小国川、刈屋川、長沢川、近内川、山口川などの支流と合流しながら、宮古湾にそそぐ延長88.2㎞、流域面積972.0平方キロメートルの県内屈指の二級河川である。
この流域は、1947年のカスリーン台風、1948年のアイオン台風によりいたるところで大きな被害を受けたほか、近年でも2016年豪雨により国道が一部不通となったほか、家屋や農地等の浸水被害が発生している。

01

1947(昭和22)年9月 カスリーン台風襲来

1945(昭和20)年8月、宮古市藤原地区は米軍機による空襲を受け、250戸500世帯が焼け出されました。ようやく平常を取り戻した2年後の1947年9月、カスリーン台風により閉伊川は増水、濁流が堤防を越えて藤原地区の大半は床上浸水し、電話や鉄道などの通信・交通はすべて途絶して陸の孤島になりました。

02

1948(昭和23)年9月 アイオン台風襲来、市街地は大洪水

カスリーン台風から1年後の1948(昭和23)年9月16日夜、アイオン台風が来襲。過去一日最大雨量の249.3mmの豪雨をもたらし、決壊した閉伊川の濁流は宮古橋と山田線鉄橋間の堤防を破り、藤原地区に押し寄せた濁流により民家は宮古湾に流出する大きな被害を受けました。市街地は7割が浸水、深さは1~3mの浸水となり、末広町商店街は、土砂や流木が堆積しました。

閉伊川河口付近の藤原地区流失跡

倒壊流失した宮古水産加工組合

藤原地区に次ぎ、被害が大きかった向町

宮古市中心部の末広町商店街

※写真提供:宮古市教育委員会[旧宮古測候所所蔵]

03

早池峰山で2回の“山津波”起きる

アイオン台風の豪雨により、北上山地の中央にそびえる早池峰山は大きな山崩れを起こし、大量の土砂と雨水が鉄砲水(山津波)となり閉伊川を襲いました。山津波は連続2回起こったと言われ、住民370名余りが死傷し、6,200戸余が全壊または床下浸水の住家被害となりました。

土砂災害イメージ

※写真提供:岩手県県土整備部

04

土砂崩れで山田線は途絶し、集落は孤立

前年のカスリーン台風で寸断され、4か月後の1947年1月に復旧したばかりの山田線は、アイオン台風により再び被害を受け、松草-蟇目間の線路や鉄橋トンネルはほとんど冠水し線路は流失、宮古・盛岡間102.1kmのうち、47.9kmが不通になりました。濁流により鉄道や道路が寸断された門馬地区や藤原地区は陸の孤島と化しました。

茂市−蟇目間の第30閉伊川橋梁(旧新里村)

陸中川井−腹帯間の第28閉伊川橋梁(旧川井村)

陸中川井−腹帯間の第23閉伊川橋梁(旧川井村)

平津戸−川内間の第14閉伊川橋梁(旧川井村)

※写真提供:宮古市教育委員会[旧宮古測候所所蔵]

05

生活再建と山田線復旧開通

被災当時、日本は連合国軍の占領下であったため、総司令部が山田線と釜石線の経済効果の比較で、復旧工事は釜石線優先の態度を明らかにするなど、山田線の早期復旧は困難を極めました。しかし宮古市民は、市の生命線が寸断されたままでは真の復興はできないと、政府や国会など関係方面への陳情運動を続けるなど、決してあきらめることはありませんでした。幾多の苦難を経て、カスリーン台風から約6年後の1954年11月、山田線は待望の復旧がなって開通、3日間の祝賀行事で陸の孤島から解放されたことを喜び合いました。

子どもも泥出しの手伝い

路上に畳を干して乾かす

※写真提供:(左より2枚) 宮古市教育委員会[旧宮古測候所所蔵]

06

洪水・内水氾濫、土砂災害への対策

閉伊川流域では、東日本大震災で甚大な被害を受けた下流域の津波対策と併せ、河川氾濫をできるだけ防止するとともに、被害の軽減と早期復旧・復興のためのさまざまな対策に取り組んでいます。宮古市では、国・県・市・民間企業等が一体となって、河川改修や河道掘削、雨水排水ポンプや排水路の整備、森林整備などのハード対策と、情報伝達体制の整備や防災士養成などのソフト対策を進めています。

林野庁・県が管轄する治山ダム(イメージ)

県・市が管轄する河道掘削(イメージ)

雨水排水ポンプの整備により内水氾濫を防止する。千徳雨水ポンプ場(宮古市)

各地に設置された「危機管理型水位計」「河川監視カメラ」の情報により、避難判断水位や氾濫危険水位を確認できる岩手県の「河川情報システム」

※写真提供: 左より 岩手県農林水産部 森林保全課 、 岩手県 県土整備部河川課、 宮古市、 岩手県 県土整備部河川課