前史・慶長奥州(三陸)
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東日本大震災

東日本大震災【2】防潮堤が救った命、備えることで救えた命

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「想定外」でも、的確に判断し
避難した生徒たち

「忘れたくても忘れられない・・・忘れた方が楽だろうけれど、忘れたら忘れたで自分の心の中でも生きていない。忘れるのが怖いと思うときもある。楽しい事なら辛くないのに・・・津波って本当嫌だ」(当時:田老第一中学校3年生・石川美幸さん、津波体験作文集「いのち」より)2011年3月11日午後2時46分、田老一中の3年生は各教室で最後の学活にのぞみ、1・2年生は体育館で卒業式の練習・準備をしていました。想定外の巨大津波の襲来に対し、とっさの判断が求められたあの日あの時、どう行動したのか。当時田老一中校長だった佐々木力也氏の論文「『あの日、あの時』と『これから』」(『災害文化研究』第5号)から抜粋し、当時の様子を紹介します。

あの日あの時、田老一中3.11ドキュメント

日頃の避難訓練の成果もあり約4分で校庭に避難することができた。(中略)ラジオの情報や防災無線だけが判断の頼りであったが、正直、その後の判断と指示の難しさを痛感した。判断を迷わせた理由は、防災無線の声が不明瞭であった。明治29年、昭和8年の三陸大津波に遭っても本校が被災から免れ、平成17年度から本校が津波シェルターになっていることや防浪堤の存在があったからだ。 「津波はここまでは来ない。」そう思った。
「まずは、3時10分まで待とう。」しかし、余震が何度かあり、最終的に「3時30分まで待機し、様子をみよう。」と伝えた。(p.26)

3時10分過ぎ頃、田老湾方向に30メートル以上の高さの(後々思い出せば100mにも達していたと思う)、まさに東京スカイツリーのようにそびえ立つ水柱を発見した。用務員の琴畑さんが、すかさず「津波だ、逃げろ!」と、声を発したことが避難行動の引き金となり、生徒も教職員も一斉に高台を目指して懸命に走った。校庭に避難していた田老の住民や保育園の園児たちも、田老一中の行動を見て、一斉に動き始めた。そして、四つん這いになりながらも必死に赤沼山を登り切り、常運寺の墓地に避難した。
常運寺の墓地で人数確認をした。欠席は7名、全校生徒は129名なので、122名の生徒がいるはずだった。しかし、学級・学年ごとに人数確認をした結果、人数が足りない。愕然とした。
そこで、何人かの生徒が別ルートで避難した可能性があると判断し、若手男性教員とともに捜索にあたった。険しい山を大きく迂回して校舎裏へたどり着いた。30分要した。 (p.26)

生徒全員の安否を確認し、全員が無事でいることを確認できるまで1時間以上も要した。「津波だ。逃げろ。」の声で一斉に避難を始めたが、何人かの生徒は、機転を利かせ、体育館の裏手から三鉄の線路を通り田老第一小学校方面へ避難したからだった。日頃から、学校周辺の地理に明るい生徒たちは、冷静に校舎周辺の状況を判断し、主体的に行動することで津波から自分の命を守ったのだ。」(p.26-27)

特筆したいことは、生徒が見せたたくましい行動力、その強さとやさしさ溢れる姿だ。(中略)何人かの生徒や若手教員は、たくさんの保育園児やお年寄りの手を繋いだり、恐怖で足がすくみ歩行がままならない人たちを背負ったりしながら、安全なところまで誘導していた。また後日の報告で得た情報では、体育館の裏手から避難した生徒たちは、周辺の土地が不案内な住民の方々を「三鉄の線路をたどっていけば田老第一小学校に通じます。」と避難誘導したそうだ。(p.27)

(佐々木力也「論説「あの日、あの時」と「これから」」[災害文化研究会2021年3月発行「災害文化研究第5号」]より引用)

「安全につながる日常の大切さ-田老の生徒が伝えたもの」

田老第一中学校では、非常の事態に備え、平時から数多くの避難訓練を重ねてきました。また、田老一中の校歌3番の歌詞には、津波の被害を幾度も乗り越えてきた郷土の先人をたたえ、その精神を受け継ぐ思いが込められています。

「防浪堤を 仰ぎ見よ 試練の津波 幾たびぞ 乗り越えたてし わが郷土 父祖の偉業や 跡つがん」

こうした思いや日頃からの津波に対する心構えや訓練が、とっさの事態にも臆することなく、冷静で的確な判断による避難行動につながったといえるでしょう。
生徒たちの主体的に行動するたくましさや優しさを伝えた行動は、中学校道徳科教科書「新しい道徳2」(東京書籍)に「安全につながる日常の大切さ-田老の生徒が伝えたもの」として掲載されました。

ボランティアで支援物資を運ぶ田老一中生
(2011年3月16日、佐々木力也撮影)

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