前史・慶長奥州(三陸)
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昭和三陸地震津波、チリ 地震津波【1】高台移転か防浪堤か、関口松太郎の決断

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高台移転か防浪堤か、
関口松太郎の決断

明治三陸地震津波からわずか37年後の1933(昭和8)年、再び大津波が宮古を襲いました。3月3日の深夜2時31分、マグニチュード8.5規模の強震に誰もが目を覚まし、発生した津波は第6波まで続きました。これが、後に昭和三陸地震津波と呼ばれるようになった大津波です。
夜が明けた旧田老村・旧乙部村の集落は、高台にある役場などを残すだけですべての家屋が流され、またも村は全滅したのでした。“もはや人の住むまちではない”と言われた、ここから、田老の津波への本格的な挑戦が始まりました。

昭和の津波前の田老村(1933年2月撮影)。明治の津波で全滅した集落跡に再び家々が軒を連ねた平和な漁村だった。
(撮影:津田重一郎)

昭和の津波でまたも全滅した田老村(1933年3月撮影)
(撮影:津田重一郎)

田老再起へ、津波への挑戦が始まった

当時の田老村長・関口松太郎氏は早速、同日午前7時には消防士を陸路・宮古に走らせ、県知事と下閉伊支庁長あての救助依頼の書面を持たせ、食料や仮小屋設備、医師派遣を要請しました。
救助依頼も功を奏し、宮古町から白米が供給され同日の夕食から炊き出しを開始。発災から5日後に着工したバラック(仮の粗末な木造家屋)建設は同月12日に完成、15日から入居を開始。避難所となった小学校も4月1日の新学期には避難者全員が引き上げることができました。また、被災の後片付けも終わっていない3月9日には皇室から侍従が派遣され被災状況を視察し、村に7,500円を賜るなど、ほかにも各方面からの来訪も多く、全国から差し伸べられた励ましと温かな援助により、住民は深い悲しみの中にも一筋の光明を見ることができました。
関口村長は被災翌日の3月4日には議会招集の通知を出し、6日には開催するなど、田老復興に向けて迅速に動きを開始したのでした。

発災当日に発信された「被害第一報」

関口松太郎村長の直筆の議会資料

議会を招集する旨の資料(昭和8年3月4日)

津波対策を協議する案件第一号(昭和8年3月6日)

津波から暮らしを守るための防浪堤建設

明治の津波に続き、またや村が壊滅した田老の復興工事計画は、関口村長のもと進められました。住民の間には悲壮感が漂い、全村民が満州に移住しようとの話すら出たという中、当時、政府の外郭団体・震災予防協議会の幹事であり、地震学会会長であった今村明恒博士などが内務省や岩手県に進言した復興策は、集落上げての高所移転でした。
「漁師が高台に移っては仕事にならない。そんな場所もない」。旧田老村において、移転を要する該当戸数は約500戸、しかもその宅地造成を可能とする高台も見当たらない、居住地から遠く離れては漁業が難しい、海抜1m余の低地で集落の土盛りも容易ではないことは明らかでした。関口村長の主導のもと、村自らが出した復興策は、集団的高所移転ではなく、津波から村を守るための防潮堤(当時は“防浪堤”と呼んでいた)建設を中心にした復興計画でした。“田老は漁業がなければ生きていけない、生きるためには津波と生きていくことを選択した”のでした。
「防浪堤だけではだめだ。避難路がないから多くの犠牲者が出たのだ」。そうして作成したのが、避難道路の整備(避難道路:平坦地に碁盤の目状に整備された自動車用の道路)、宅地の区画化と割り当て、長内川・田代川の護岸計画など市街地計画も盛り込まれた「田老村災害復旧工事計画」でした。
当時は満州事変以来、軍事予算が年々増加する中で、全長1,000m、工事費20数万円を要する防浪堤建設は途方もない費用がかかると内務省は反対、県からも不認可となり、計画は中止となってしまいます。村民は茫然自失となり村ごとの移転を言い出す者や、実際に離村してしまった村民も出るなど、事態は深刻でした。
“この復興計画を中止することは子孫に対し、悔いを残すことにもなりかねない”と、関口村長は国や県をあてにせず、田老村単独の事業として防浪堤建設を決断したのでした。

高台移転を唱える国の復興計画図である、文部省(現在の文部科学省)の「震災予防評議会」が取りまとめた1933年『津浪災害予防に関する注意書』 (宮古市所蔵)

実施された復興工事計画図(宮古市教育委員会所蔵)

防浪堤構造図(宮古市教育委員会所蔵)

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