前史・慶長奥州(三陸)
地震津波
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明治三陸地震津波
昭和三陸地震津波、チリ地震津波
東日本大震災

昭和三陸地震津波、チリ地震津波【4】重茂姉吉地区の教訓「ここより下に家を建てる

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重茂姉吉地区の教訓
「ここより下に家を建てるな」

三陸海岸をはじめ東北地方の太平洋沿岸には、地震津波や台風・洪水などの風水害、土砂災害など自然災害の被害や教訓を後世に語り継ぐための「自然災害伝承碑」が数多く建てられています。その多くは、昭和三陸地震津波(1933年)により建てられたものです。
明治以降の津波災害後、高地移転などの対策が講じられるようになりますが、宮古市には経験的な津波遡上高をもとにした教訓を伝える石碑が残されています。

先人の教えが集落を救った

重茂地域の姉吉地区は太平洋に面し、急な谷に囲まれた集落です。明治三陸津波で集落が全滅し、住民78人のうち生存者はわずか2人、昭和三陸津波でも、定置網の番屋にいた漁業者約50人を含む100人以上が亡くなり、生存者は4人という被害があった地域です。昭和三陸地震津波の後、海岸から約800m離れた海抜60mの場所に建立された大津波記念碑には、次の教えが刻まれています。
「高き住居は児孫の和楽、想へ惨禍の大津波、此処より下に家を建てるな」
(高台にある家は子孫に平和と幸福をもたらす。大津波の災いを忘れるな。ここより下に家を建てるな)
地域では教訓を守り通し、昭和三陸地震津波以降、現在までこの石碑より下に住居はありません。現在、姉吉地区の集落は、石碑のある場所からさらに200mほど上がったところに広がっています。
東日本大震災で、この集落を襲った津波の遡上高は38.9mで石碑の約50cm手前まで津波が迫りましたが、この教えを守り続けてきた当時11世帯・住民約40人の集落での建物被害は一軒もありませんでした。先人の教えが住民の命を守った一つの教訓です。

「大津波記念碑」(宮古市重茂姉吉地区)

高台地域にも大きな被害をもたらした東日本大震災

重茂姉吉地区のように、昭和の大津波後に高台に移転し難を逃れた地域もありますが、一方で高台に留まったにも関わらず、東日本大震災では集落全体が壊滅的な被害を受けた地域も存在します。

(中央防災会議(2011年7月)「東北地方太平洋沖地震を教訓とした地震・津波対策に関する専門調査会 第5回会合/参考資料1 今回の津波における高地移転等を行った地域の状況」)

では、こうした想定を超える津波に対していかに備えるのか。東日本大震災の教訓から、現在では、二段階の防災レベル(「頻度の高い津波」と「最大クラスの津波」)といった 「新しい津波防災の考え方」が導入され、その考えに基づく整備が進められるようになりました。

歴史に学び、先人の教えを今に生かす

過去に発生した災害は、必ず再び発生すると言われます。過去の災害記録を調べてみると、地震津波災害も風水害・土砂災害などにしても、以前にも同様の災害が発生していることがわかります。先祖や先人たちが残してくれた災害の教訓や教えは、口伝や文献、自然災害伝承碑となって現在に伝えられています。
三陸地方では、古くから「地震があったら津波の用心」が常識となっていましたが、これは、1933年の昭和三陸地震津波後に、東京朝日新聞社が主催して各町村に分配された義援金で建てられた記念碑の多くに、こうした文が刻まれていたことからと言われています。
地震の前触れもなく津波が来襲する遠地津波の「チリ地震津波(1960年)」を経験するまでは、“地震がないのに、なぜ津波が”という思いを抱いた住民が多かったのも、そのためとも言われます。このことは、災害や防災情報について正しく理解し、正しく恐れ、正しく備え、正しく行動することの大切さを教えてくれる一つの教訓です。
東日本大震災以後、宮古市には、津波到達地点を表した津波碑や津波浸水表示板などが多く建立・整備されました。私たちは古文書や碑文に遺された記録をとおして、災害の危険性を理解し、伝承碑が建てられた場所では、再び同じ災害が起こる可能性があると捉えて、来るべき災害に備えることが大切です。

昭和三陸地震津波、チリ地震津波【4】重茂姉吉地区の教訓「ここより下に家を建てる

小山田・閉伊川緑地公園(ふれあい公園) にある東日本大震災津波碑「2011年3月11日 津波到達地」

リアスハーバー宮古にある「東日本大震災 津波浸水表示板」

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