前史・慶長奥州(三陸)
地震津波
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東日本大震災

前史・慶長奥州(三陸)地震津波【1】まちづくりの基礎となった津波からの復興計画

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まちづくりの基礎となった津波からの復興計画

宮古市の歴史は、津波とそこから立ち上がる人々の軌跡といっても決して大げさではありません。記録に残る津波は、古くは869年の貞観地震津波から確認されています。東日本大震災(2011年)以前は、貞観、慶長、明治、昭和の大津波を4大津波として、その津波のすさまじさと被害の大きさが多くの記録に残されています。

「津浪(波)」の言葉が一般に使われ始めたとされる慶長の大津波

後にマグニチュード8.1だったことがわかった、江戸時代前期1611年の慶長奥州(三陸)地震津波では、宮古市では家屋が1軒も残らず流失[宮古由来記]、津軽石で150人が死亡[盛合家文書]、田老村では波高15~20mで田老平坦部、小港、下摂待地区など田老地域が全滅[田老町史津波編(田老町津波誌)]とのことから、実にすさまじい津波であったことがわかります。

『駿府政事録』(東北大学附属図書館所蔵)。
伊達政宗が仙台藩を襲った津波について、徳川家康に報告したと記述されている。「津浪(波)」の語(右図赤線部)が見られる最古の文献。

津波の河川遡上を語り継いだ「一本柳の跡」

宮古市田の神にある「一本柳の跡」と刻まれた石碑は、地元有志が慶長奥州(三陸)地震津波の言い伝えを残すために建てたものです。津波を「ヨダ」と呼び、不気味がりました。閉伊川下流に注ぐ山口川を津波が逆流し、約1.5km上流の石碑近くまで舟は流され、その際、一本柳につなぎ留めたと伝承されています。慶長の大津波が河川を遡上し、内陸部へと流れ被害を拡大させたことがわかります。

「一本柳の跡」の場所を地図で見る

宮古の町の基礎となった、津波からの復興計画

被災から4年後の1615年、盛岡藩主・南部利直公が三陸の被災地を巡視し、宮古には20日間滞在して宮古の復興計画を立てました。この時に定めた本町を中心とした町割(まちわり)が宮古市街地の基礎となっています。宮古港もまた、慶長大津波をきっかけとして、1615年に南部利直公により藩の港として定められたのが始まりです。
同じく被害の大きかった田老地域も、江戸後期には牛方による海産物や塩の交易、マグロ建網などでまちは栄え、『三閉伊路程記』には「田老、家百軒、田老は乙部と続、町屋作にてよき村也…(略)町裏に金比羅の社あり、町中に堰あり、御高札場あり…」と記載されるほどでした。
長崎貿易の輸出品であった水産物の積み出し港であり、江戸と北海道松前を結ぶ東廻海運の中継港でもあった宮古港の繁栄などにより、宮古は幕末には南部藩随一の繁栄地となりました。

三閉伊通海岸整正分開絵図
(盛岡市中央公民館所蔵)/宮古市産業振興部企業立地港湾課ホームページより転載

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