前史・慶長奥州(三陸)
地震津波
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明治三陸地震津波
昭和三陸地震津波、チリ地震津波
東日本大震災

昭和三陸地震津波、チリ地震津波【2】絶対に退けない。村費で始まった防浪堤建設

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絶対に退けない。
村費で始まった防浪堤建設

明治の大津波の後、義援金を投入して土盛りを行い、一度は高所移転を試みたものの資金難などの事情により結果、計画は頓挫し、わずか50cmの土盛りに終わった前史がある旧田老村にとって、昭和の大津波後に、村独自の決断と借金により、自前で防浪堤建設に踏み切ったことは、津波から命と財産を守るための苦闘と切実な思い、防災・減災への願いが結実したものでした。

挫折に終わった明治の二の舞は
繰り返すまい

当時は1929年に始まった世界恐慌の影響による大不況、東北・北海道の凶作・不作、東北では欠食児童や娘の身売り問題などが続出していたことから、旧田老村の財政に余裕など全くありませんでした。「事を急がなければ災害の記憶は冷めてしまい、挫折に終わった明治の復興計画と同様になってしまう。その二の舞だけは絶対に繰り返すまい」と村役場の職員は思案を重ね、大蔵省預金部から集団的高所移転の条件で融資が内示されている6万円を借入し、その中の5万円を投入して築堤に充てることにしました。

田老海岸堤防築造役場の前にて。前列中央が関口松太郎村長
(宮古市教育員会所蔵)

村独自の決断と借金で始まった
百年の大計

防浪堤建設計画は当初、海岸に沿った全長約1,000mの計画でしたが、その建設費は、当初国から認められませんでした。
「防浪堤計画を中止することは、子孫に悔いを残すことになりかねない」と関口村長は、村単独事業として実施することを決定し、計画を縮小し、第1期工事を全長500m、高さ15mの計画としました。
1934年3月に工事が始まり、関口村長は現場の指揮や自ら労働を行うこともありました。
石黒英彦岩手県知事が復興工事視察のため、1935年には田老を訪れ、村内を見て回り、これを機に「関口には負けた」と防浪堤工事は県が行うこととなりました。こうして工事2年目からは全面的に国や県が工事費を負担する事業となりました。

1935年、防浪堤工事を視察する石黒英彦岩手県知事(右から3人目)、関口松太郎村長(同4人目)らの一行(宮古市教育員会所蔵)

防浪堤(第1防潮堤)建設の記録写真(宮古市教育員会所蔵)

その後、日中戦争拡大に伴い賃金や資材等の高騰・枯渇に襲われ、第二次大戦が始まり若者たちは徴兵され、工事は中断。戦後、町をあげて関係省庁に陳情を繰り返し、1954年ようやく14年ぶりに工事を再開。そして1958年に24年を費やした工事は完工。全長1,350m、上幅3m、基底部の最大幅25m、地上高7.7m、海面からの高さ10.65mの防浪堤が完成したのでした。
田老の中心部を「く」の字形で囲む防浪堤は、国内外から「万里の長城」と称されました。防浪堤(第1防潮堤)の完成した4年後、1961年には、新たな防潮堤工事が始まりました。その後、第2防潮堤、第3防潮堤の工事を経て、村を挙げて防潮堤建設を決断してから44年目の1979年、世界にも類を見ない総延長2,433m、「X」字型の巨大防潮堤が完成したのでした。

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