前史・慶長奥州(三陸)
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東日本大震災

昭和三陸地震津波、チリ地震津波【3】防浪堤だけではダメだ。“てんでんこ”のまち

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防浪堤だけではダメだ。
命を守るまちづくり

旧田老村の津波からの復興工事計画は、防浪堤(当時は防潮堤をこう呼んでいた)建設だけにとどまらず、河川の護岸改修工事や市街地整備にまで及びました。その整備状況は、津波から逃げ切ることを想定したもので、この時に整備された避難道路は、想定外と言われる未曽有の被害をもたらした東日本大震災における避難時にも利用され、難を逃れることができた人々が多数いたことがそれを証明する結果となりました。

村のため、全地主が土地を2割無償で提供

関口松太郎村長は、「防浪堤だけではだめだ。避難路がないから多くの犠牲者が出たのだ」とし、防浪堤の内側に県道(現国道)と市街地を整備することとし、同時に避難道路の整備(避難道路:平坦地に碁盤の目状に整備された自動車用の道路)も検討されました。
津波犠牲者が多く出た原因の一つが、道路が未整備で避難しようにも柵や垣根に阻まれたためでした。しかし、村には防浪堤や防潮林、避難道路を整備するための膨大な公用地はなく、私有地が入り組んだままではどうにもならない状況の中、それを可能にしたのは、土地を所有する地主が残らず耕地整理組合に結集し、「耕地整理法」のもと、村の安全と将来のために各地主が利害を超えて所有地を2割ずつ提供してくれたからでした。こうして、必要な敷地の整理と確保に着手できたのでした。村が借金をしてでも防浪堤建設を決断したのと同様に、ここでも、「自分たちの町は自分たちの手で守る」という村役場と住民の高い防災意識があったからこそ、津波対策の歩を進めることができたといえます。

隅切りの道路、碁盤の目のまちなみを整備

昭和の大津波直後に策定された「田老村災害復旧工事計画」は、幾度となく襲った津波の怖さを知りながらも、高台移転を拒み、村単独の借金をしても海と共に生きることを選んだ田老の海辺で生きる覚悟と徹底した津波対策の姿勢が貫かれたものでした。まちづくりの設計においてもその考えは徹底されました。

・「防浪堤の内側の集落は碁盤の目状とし、道路は、災害が起きた時に避難すべき方向が一目で見渡せるよう、海と山の位置が確認できるように真っすぐに、縦方向の道路はすべて山に向かって造る」
・「交差点での混乱を避けるために、“隅切り(すみきり)”と称して、交差点の角を切って見通しを良くして通りやすくし、走ってきた人がスピードを緩めなくても曲がれるようにする」

どこからでも短時間で高台にたどり着けるように、山際には避難階段や避難道路を整備し、逃げればよいではなく、津波から逃げ切るために一人ひとりが自ら避難できるよう、“命てんでんこ”を可能とするまちづくりに挑戦したのでした。
田老の住民は、明治の大津波では15mの津波を経験していたため、高さ10.65mの防浪堤では万全ではないことを知っていました。田老の防浪堤は津波撃退ではなく、津波のエネルギーを弱め、住民が高台に避難する時間を少しでも稼ぐことを目的としていることを知っていました。だからこそ、津波が防浪堤を越えてくる可能性も前提とした現実的な対策を講じたのです。そしてまた、年1回の避難訓練にも力を入れ、ハード・ソフトの両面で防災対策を講じてきたのでした。こうしたまちの設計は、東日本大震災時の津波からの避難においても十分生かされました。昭和の大津波を経験した90歳代の高齢の住民の多くがこれらの道路を通り、高台まで逃げて難を逃れることができました。

碁盤の目に広がる旧田老町(1977年10月撮影)(写真提供:国土地理院)

「隅切り」された交差点(写真出典:「岩手県県土整備部「地域の安全安心促進基本計画(津波)田老町資料」」

東日本大震災以前より整備されていた「津波避難路」田老第一中学校の南に位置する赤沼山は、田老における数少ない高台のため、各方向から避難できるように複数の避難路が整備されている。

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