田老の防浪堤(第1防潮堤)完成から2年後の1960(昭和35)年、日本から見て地球の真裏近くにある南米チリで、マグニチュード9.5の観測史上最大の超巨大地震が発生。この地震によって生じた大きな津波は平均時速750kmという高速で太平洋を横断し、22時間半後に日本の沿岸に到達し大きな被害をもたらしました。
このチリ地震津波を契機として、近地津波に加え「遠地津波」が日本に大きな影響を与えることが改めて確認されました。また、これを契機に、三陸沿岸をはじめ全国各地で防潮堤の整備が進められました。
1960年のチリ地震津波のように、非常に遠方で生じた津波が伝播してきた場合、これを「遠地津波」と呼んでいます。「遠地津波」は強い震動が感じられない、到達までに長い時間がある、波動の周期が長い、長時間継続するなどの特徴があり、近海で起こる近地津波とは区別されます。また、チリ地震津波後は「地震がなくても異常引き潮は必ず津波と思え」との教訓も生まれました。
チリ地震での宮古湾の津波波高は最大6.3mだったため、内湾の高浜を中心に金浜、赤前、津軽石地域が被災し、家屋の流失や倒壊、漁船の流失、養殖施設などが全滅しました。
昭和三陸地震津波後の対策として整備された田老地区の防潮堤が、被害が軽減されるなどの効果があったことから、全国各地で防潮堤の建設が始まりました。藤原地区や磯鶏地区にも防潮堤が造られ、磯鶏地区には延長486m、高さ6m、藤原地区には、閉伊川の宮古橋から河口まで643m、左岸は光岸地まで1,024m、高さ5.6mの防潮堤が造られました。
旧魚市場(上げ潮:1960年5月24日16時35分撮影)
町中にドラム缶が転がる新川町 *写真2点とも宮古市教育委員会所蔵
(写真提供:崎山 安倍実さん)
遠地津波による被害は、古くは江戸時代に宮古の鍬ケ崎でもあったとの記録が残っています。1700年1月27日、地震も無いのに津波が押し寄せ、倒壊した家から出火して20軒が焼失、13軒が波に取られました(「盛岡藩雑書」)。この津波は、米国北西部とカナダ南西部の沖にあるカスケード沈み込み地帯で発生し、太平洋を横断して襲来したものでした。
明治以降の津波において、チリ地震だけが遠地地震により全く地震を体感せず、予報警報の無い中で早朝に襲来した津波は周期の長い津波で、通常の津波とは異なり湾口より奥の方が高い津波となり、大きな被害をもたらしました。
鍬ケ崎では火災が発生、20件ほどが焼失、津波が岸壁や防潮堤を越え、水が抜けずに長期にわたり滞留する湛水や下水道や排水溝などからの浸水により孤立する集落がでるなど、都市化に伴う脆弱性も明らかになりました。
(内閣府・防災情報「災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 1960チリ地震津波」資料編 コラム8「遠地津波と火事」)
▶https://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1960_chile_jishintsunami/index.html