前史・慶長奥州(三陸)
地震津波
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明治三陸地震津波
昭和三陸地震津波、チリ地震津波
東日本大震災

昭和三陸地震津波、チリ地震津波【6】津波対策と語り継ぎで、防潮堤に依存しない防

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津波対策と語り継ぎで、
防潮堤に依存しない防災力を

昭和三陸地震津波から25年後の1958(昭和33)年、関口松太郎村長が描いた田老の防浪堤(第1防潮堤)が完成。さらに改良工事が重ねられ、1979(昭和54)年3月、ついに世界に類を見ない総延長2,433m、高さ10.65mの巨大防潮堤が完成しました。田老の町は、巨大防潮堤建設や最新防災設備の導入、避難路の整備などのハード面の津波対策に加え、津波避難訓練を毎年繰り返し行い、地域としての防災力を蓄えてきました。こうして宮古市は、郷土愛と不屈の精神で防災に強いまちを築いてきました。

苦節44年、町の悲願の田老防潮堤完成

チリ地震津波による被害がなかった旧田老町では1956年から第2防潮堤の建設が始まり、長内川の河口には水門が設置されました。この背景には人口増加に伴う宅地不足がありました。そして、国鉄宮古線(現:三陸鉄道北リアス線)の宮古-田老間が開業した翌年にあたる1973年から第3防潮堤の建設が始まり、田老川の河口にも水門が設置されました。第1防潮堤の「く」の字の形状と、第2・第3防潮堤の「く」の字の形状が背中合わせにつながって「X」字型となったのです。新たな防潮堤は緩衝地帯だった野原を宅地に変貌させましたが、市街地を二重に守ることにもなりました。こうして1979年3月、世界に類を見ない巨大防潮堤が田老のまちに築き上げられたのです。

昭和三陸地震津波、チリ地震津波【6】津波対策と語り継ぎで、防潮堤に依存しない防

ハード対策に過度に依存しない、
先駆的な取り組み

巨大防潮堤が完成し、津波からの避難を前提にした“てんでんこ”のまちづくりを進め、整備を図る旧田老町では、“防潮堤は津波を完璧に防ぐものではなく、避難のための時間を稼ぐもの”との位置づけのもと、津波に備えた先駆的な取り組みを推進してきました。庁舎ならび地域への電源・通信機器の整備、システム等の活用などの設備や施設を着々と整備し、「防災の町・田老」を確立していきました。

旧田老町における、東日本大震災以前の津波対策

構造物、まちづくり等
防潮堤の建設 昭和8~昭和53年度 総延長2,433m、T.P.+10.65mのX字型防潮堤。
長内川、 田老川護岸整備
水門・陸閘(りっこう) 昭和52・53年度完成 摂待水門、田代川水門ともに遠隔制御水門施設として整備。
有事に際は消防団員が閉鎖
防潮林植栽 昭和10年度 黒松・赤松7ha
市街地整備 昭和8~18年度 碁盤の目状の道路整備、道路幅の拡張、高台への接合、交差点の隅切りなど
避難路、誘導標識の整備 昭和8年から実施 昭和61年以降、第1次避難所13カ所への津波避難路整備し、手すり付き階段、誘導標識、太陽電池式照明灯を整備
防災教育・啓発
津波避難訓練の実施 昭和9年から実施 全町的本格訓練は昭和32年から実施
津波防災マップ作成・津波痕跡
高さの表示・第1回全国津波
防災サミット開催
平成2年実施 住民主体で県・田老漁港や国道45号などに設置以降、全国展開された
津波体験等の語り継ぎ 田畑ヨシさんによる小中学校での紙芝居公演など
庁舎ならびに電源・通信機器の整備
防災行政無線の整備 昭和27年度以降 昭和27年度:町中心街に屋外放送設備を整備、
昭和55年度:全町に屋外放送設備を整備、
平成12年度:全世帯に戸別受信機を設置
消防団無線、業務用簡易無線、特定小電力トランシーバー等を整備
自家用発電機 海側とは反対の庁舎裏手に設置
システム等の活用
潮位監視システムの設置 平成3年度 東京大学地震研究所により設置
田老新港に超音波センサーを備え、役場からモニター監視
津波襲来時に消防団員の津波目視確認が不要になった
津波監視システムの設置 平成3~4年度 平成4年度:
夜間照明付きテレビカメラ2基を役場屋上と漁港に設置
津波予測システムの設置 平成4年度 東京大学地震研究所により設置
地震計の情報を役場内の端末で分析し、地震発生から2分程度で津波の予測(到達時間等)を行う
緊急情報衛星同報受信装置 平成6年度 気象庁が気象衛星を通じて発表する地震情報を受信し、防災行政無線(同報系)に接続し自動放送

(田老町(1995年)「地域ガイド 津波と防災~語り継ぐ体験」、田老町(1990年)「田老生誕100周年記念誌」、岩手県県土整備部「地域の安全安心促進基本計画(津波)・田老町(平成15年度)」を基に作成)

津波体験を風化させない「語り継ぎ」と「避難訓練」 

津波への備えは、巨大防潮堤や水門などの構造物や設備・施設などのハード対策にのみ依存することなく、さまざまな防災教育や啓発の場を設けて、津波体験を風化させることなく、津波から生きのびるためのソフト対策を重視してきました。次に紹介するのは、宮古市に特徴的な事例です。

津波防災のバイブル『田老村津浪誌』

昭和三陸地震津波の翌年に、住民への防災教育にと発行された冊子で、「津波の歴史と発生のしくみ」の他、「津波に対する心得」「小学生による体験記」などがわかりやすく平易な言葉で記されています。
「津波に対する心得」では、地震の心得、津波の心得、津波の防止方法、避難上の注意が県や測候所などのアドバイスも活かされた具体的な内容で記載されており、当時の被災状況と教訓を今に伝えています。実践的で役立つ内容であることから、今日でもさまざまな出版物に再録されています。

田老尋常高等小学校編
「田老村津波誌」(1934年)

「津波予報の伝達訓練」も行う避難訓練

旧田老町では毎年3月3日の朝、津波想定の避難訓練を行っていました。避難は約10分間で終了し、その後、津波予報の種類をサイレンの音の違いで判別できるようにと「津波予報の伝達訓練」や「津波来襲時の避難に関する注意事項」が放送されるというもので、これらの内容は実践的な防災教育としての機能を果していました。訓練を3月3日の朝に実施するのは、まちがほぼ全滅した1933年3月3日の昭和の大津波を記憶にとどめ、犠牲者を慰めるといった意味もありました。

総合防災訓練のようす
(2005年7月、田老)

田畑ヨシさんによる津波体験の語り継ぎ

田老地域には、田老を代表する語り部として県内外に知られる田畑ヨシさんがいました。旧田老町の若者たちは子どもの時に保育所、児童館及び小中学校で、昭和の大津波以降の津波体験者であるヨシさんの津波の紙芝居を見て育ったという得難い経験もしていました。こうした津波体験の語り継ぎは、旧田老町のみならず宮古市全域において、家庭や学校、町の自治会などを通してさまざまな形で行われていました。

児童のほか地域住民も参加した、小学校での読み聞かせ

コミュニティを重視した消防団や自主防災組織

宮古市では、“平時のコミュニティが有事に生かされる”との考えのもと、「消防団」による地域防災活動や自主防災活動も活発に行ってきました。各自治会単位に組織された「婦人防火クラブ」や「婦人消防協力隊」など、会員同士の親睦につながるような取り組みなどを行いながら、自然と防災意識が身につくような取り組みを重視してきました。

水門閉鎖訓練(2005年7月、田老)

「津波防災の町宣言」

旧田老町では、昭和の大津波から70年目の2003年3月3日、将来の大津波においても犠牲者を出さないことを誓い、「津波防災の町宣言」 を行いました。「津波災害で得た多くの教訓を常に心に持ち続け、津波災害の歴史を忘れず、近代的な設備におごることなく、文明と共に移り変わる災害への対処と地域防災力の向上に努め、積み重ねた英知を次の世代へと手渡していきます」と、津波体験を風化させることなく、後世に継承していくことを心に刻んだのでした。 この「宣言」は、ハード対策への安心感が防災意識を低下させる恐れを危惧した内容になっていることから、その当時から高く評価され注目を集めました。こうした考え方は、東日本大震災後に策定された2段階の防災レベル(「レベル1:頻度の高い津波」と「レベル2:最大クラスの津波」)による津波の対処方針(レベル2の津波には避難などのソフト対策を組み合わせて減災するという)とも一致するものです。

津波へのソフト対策ともいえるこれらの取り組みを通して、私たち宮古市民は、津波への備えに加え、災害に対する自助・共助の心構えなども学んできました。こうした経験は、東日本大震災時でも生かされたことが、津波を体験した市民の言葉からもわかります。「教訓を語り継いで体に染み付かせる大切さを知った。震災のことも記憶があるうちは伝え続けたい」「災害時にパニックに陥るのは訓練していないから、身体に染みついていないからだと教えられてきた。だから難を逃れられた」

(参考資料:特定非営利活動法人立ち上がるぞ!宮古市田老(2014年5月発行)「限定版 東日本大震災 2011年3月1日平成三陸大津波田老伝承記録」)

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