宮古市の歴史は、津波とそこから立ち上がる人々の軌跡といっても決して大げさではありません。記録に残る津波は、古くは869年の貞観地震津波から確認されています。東日本大震災(2011年)以前は、貞観、慶長、明治、昭和の大津波を4大津波として、その津波のすさまじさと被害の大きさが多くの記録に残されています。
被災から4年後の1615年、盛岡藩主・南部利直公が三陸の被災地を巡視し、宮古には20日間滞在して宮古の復興計画を立てました。この時に定めた本町を中心とした町割(まちわり)が宮古市街地の基礎となっています。宮古港もまた、慶長大津波をきっかけとして、1615年に南部利直公により藩の港として定められたのが始まりです。
同じく被害の大きかった田老地域も、江戸後期には牛方による海産物や塩の交易、マグロ建網などでまちは栄え、『三閉伊路程記』には「田老、家百軒、田老は乙部と続、町屋作にてよき村也…(略)町裏に金比羅の社あり、町中に堰あり、御高札場あり…」と記載されるほどでした。
長崎貿易の輸出品であった水産物の積み出し港であり、江戸と北海道松前を結ぶ東廻海運の中継港でもあった宮古港の繁栄などにより、宮古は幕末には南部藩随一の繁栄地となりました。
三閉伊通海岸整正分開絵図
(盛岡市中央公民館所蔵)/宮古市産業振興部企業立地港湾課ホームページより転載