「避難所のほうから『あれはなんだー』」という声が聞こえて、フッと海をみたらすぐそこに魔物のような灰色の波が押し寄せていた。既に堤防は越えていたのだと思う」(*1)
「津波が防潮堤を越えた・・・」、東日本大震災発生から約40分後、津波が防潮堤を越えて遡上し、田老のまちをのみ込んでいきました。高さ10.65m、総延長2.4kmの巨大防潮堤も“想定外”の大津波を食い止めることはできず、第2防潮堤はほぼ破壊されました。
(*1)宮古市「東日本大震災 宮古市の記録 第2巻(下)」(下山英子さん・田老乙部・2012年10月16日取材)より引用
明治三陸地震津波 (1896年)*1 | 昭和三陸地震津波 (1933年)*2 | 東日本大震災 (2011年)*3 | |
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被災状況 | 294戸が流出 540隻の漁船が流出 |
559戸中、500戸が流失 | 1,467棟中、979棟が全壊 |
人口 | 3,745人 | 5,120人 | 4,434人 |
死者・行方不明者 | 1,859人 | 911人 | 181人 |
死亡率 | 50% | 17.8% | 4.0% |
出典(*1・*2): 被災状況、死者・行方不明者数:旧田老町(1969年)「地域ガイド 津波と防災~語り継ぐ体験」
(人口はそれぞれ1889(明治22)年、1932(昭和7年)の国勢調査の数)
(*3): 死者・行方不明者:岩手県総務部総合防災室「東北地方太平洋沖地震に係る人的被害・建物被害状況一覧」(平成24年11月6日現在)
(人口は「住民基本台帳年報」(平成23年3月31日)の数)
(出典:中央防災会議(2011年7月)「東北地方太平洋沖地震を教訓とした地震・津波対策に関する専門調査会
第5回会合/参考資料1今回の津波における高地移転等を行った地域の状況」)
▶https://www.bousai.go.jp/kaigirep/chousakai/tohokukyokun/5/index.html
震災後、新聞やテレビでは、「防潮堤があるから大丈夫と、甘えと油断が生じた」「津波が防潮堤を越えるわけがないとの過信があった」などの報道がありましたが、田老地域の住民をはじめ宮古市民は、津波対策は防潮堤だけでは限界があることを認識していました。
田老の防潮堤が明治三陸地震の際の津波高15mをカバーできていないことから、防潮堤のみに依存する考えは防潮堤建設当初からなく、小さな地震でも津波を警戒すること、“命てんでんこ”で率先避難することの重要性は、津波への備えを考えるうえでずっと説かれ続けてきました。
明治の大津波を上回った東日本大震災での津波に対して、防潮堤がまったく役に立たなかったわけではありません。住民が避難する時間を稼ぐ役割を果たし、そして、第二防潮堤は破壊されてしまったものの、残った防潮堤は人やがれきが沖に運び去られることを防いだことは紛れもない事実です。防潮堤内の海水が抜けずにプールのようになっていたため、家の2階から助け出された人や屋根に上って助かった人がいたのも事実でした。
明治・昭和の津波に比べて、人的被害は大きく減っており、これは、避難訓練などのソフト対策と防潮堤などの構造物によるハード対策の両面による津波対策が機能した結果ともいうことができます。宮古市において長年にわたり培い、磨き高めてきた「防災力」により、被害が小さく食い止められていたことも事実なのです。「自然災害は備えることで被害を縮小できる」ことが示された、一つの教訓でもあるのです。