災害からの復興タイムライン

リアス海岸が造る美しい海岸美と海の幸、その対極にある自然の脅威。私たち宮古市民は、いつ起こるかわからない津波への備えを常に忘れることなく、リアスの海とともに心豊かな暮らしを営んでいます。古くは869年の貞観地震津波にはじまり、明治以降100余年の間だけでも3度の大津波を乗り越えてきた宮古市にとって、未曽有の被害をもたらした東日本大震災は決して忘れることができません。その時、宮古の人々は何を思い、何に苦闘したのか。さまざまな資料を通して、津波を語り継ぐ役割を与えられた宮古の復興の道のりをご覧ください。

01

災害への備え

宮古市はその地形から、過去に多くの津波災害による大きな被害を受けてきました。明治時代以降では明治三陸大津波(1896年)、昭和三陸大津波(1933年)、チリ地震津波(1960年)と幾度も大きな津波災害を受けた経験から、津波に対する市民の防災意識は高く、防災施設の整備や避難訓練の実施など考えられる限りの対策を進めてきました。しかし東日本大震災(2011年)は、私たちの対策をはるかに上回り、大きな被害をもたらしました。

東日本大震災のちょうど1年前、過去の災害を知り、二度と悲劇を繰り返してはいけないと、災害を語り継ぎ、備えることの大切さを特集した「広報みやこNo.113、2010年3月1日号」。表紙は“命てんでんこ”を語り継ぐ田畑ヨシさん

02

2011年3月11日発災

平成23年3月11日午後2時46分、わが国観測史上最大となるマグニチュード9.0の巨大地震が発生。同3時26分には宮古市に8.5メートル以上の大津波が襲来。私たちがかつて経験したことがない未曾有の大災害となりました。

3月11日15時35分、大津波にのまれる田老の家々
※宮古市所蔵(撮影者:田老町漁業協同組合 畠山昌彦氏)

3月11日17時37分、何もかも流失した鍬ヶ崎
※写真提供:宮古漁協組合

03

被災状況

沿岸から市街地一帯にかけて広く浸水、最大値でマイナス50cm地盤沈下も発生しました。人的被害と建物被害も甚大で死者数517人(うち行方不明者94人)、住屋被害4,639棟(うち全壊2,677棟)、被災世帯4,582世帯・11,979人、被害推定額は2,457億円となりました(国・県の施設、鉄道、電信電話、電気事業者関係を除く)。

被災翌日の愛宕・築地(3月12日)

被災翌日の金浜(3月12日)

各地域の
被害概要を読む

『東日本大震災宮古市の記録第1巻《津波史編》』(P66~68)より転載。※内容は2014年3月20日時点のものです。

慶長16年・明治29年・昭和8年の津波で壊滅的な被害を受け、「津波太郎」とも言われるほどで、その歴史は津波との闘いであった。東日本大震災での津波は市街地で津波浸水高16.6m、津波遡上高20.72mを記録するなど、巨大津波が第一・第三堤防を越え、第二堤防が破壊 防潮堤を越えた津波は、市街地を破壊しながら押し流し、平坦部は全て浸水、大平から長内川までの住宅すべてが流失した。この壊滅的な被害により1,300人以上が避難した。青砂里-和野・乙部・荒谷の熊野神社付近で山林火災が発生し、3月16日にようやく鎮火した。
田老第一小学校には被害がなかったが、田老総合事務所は道路に面した車庫が損壊した。田老第一中学校校舎は床上30cmの浸水、校庭はガレキで埋め尽くされた。田老魚市場・田老保育所・国民健康保険田老診療所・宮古消防署田老分署など主要施設は全壊した。田老町漁業協同組合ビルは全壊したが修理復旧している。
摂待地区は摂待漁港のあわび増殖センターが全壊、摂待海岸水門は扉が破壊され摂待川をさかのぼった。下摂待橋は流失したが、田老第三小学校は浸水しなかった。

中心市街地地区

津波は出崎ふ頭を飲み込み、築地・新川町の堤防を越え市役所も2階まで浸水、閉伊川のJR山田線の橋梁も6桁を流失した。津波は向町・大通から宮古駅、本町・新町・黒田町・末広町へと広がり、中央通商店街には漁船が打ち揚げられた。本町・末広町商店街も1.5mほど浸水、車両が重なりガレキの山となり、中心市街地の被害は広範囲にわたった。

愛宕・築地・光岸地地区

明治維新後に埋め立てられた築地地区、昭和12年に完成した出崎ふ頭では、住家が流失し岩手銀行・NTT・東北電力などのビルは残ったもののほぼ1階が浸水した。国道45号がガレキで不通になり、愛宕地区も国道沿いの住家が全壊し、地区の半分以上が浸水した。

鍬ヶ崎地区

津波防潮堤のない鍬ヶ崎地区は、平坦部がほぼ全滅の被害となった。漁港の岸壁沿いにある魚市場や水産加工関連施設を破壊した波と蛸の浜の峠を越えた波が蛸の浜町でぶつかり、ドッグで整備中の浄土ヶ浜観光遊覧船が港町に打ち揚げられた。鍬ヶ崎小学校は校庭と校舎昇降口まで浸水、体育館が床上浸水であった。

崎山地区

女遊戸海岸の水門が破壊され、集落の半分以上が浸水、宮古栽培漁業センターが全壊した。中の浜キャンプ場も流失、宿漁港は岸壁が破壊され、日出島地区はほぼ全域が浸水した。

藤原地区

藤原地区は中屋造船所の水門が破れ、藤原ふ頭の防潮堤を越えて津波が侵入、国道45号を越えてJR山田線の線路に達した。国道45号周辺から海側の水産加工関係の工場や住宅、旧藤原保育所など被害が大きかった。藤原小学校は校庭が浸水した。

磯鶏地区

磯鶏地区は防潮堤から海側のふ頭にある合板工場や運輸・倉庫施設はもちろん、三陸北部森林管理署・宮古市民文化会館など国道45号沿いに大きな被害が出た。津波はJR磯鶏駅を越えて、磯鶏西や上村まで浸水した。八木沢川沿いの合板工場、宮古水産高校まで浸水した。リアスハーバーも全壊、貯木場から木材(丸太)が流失した。

高浜・金浜地区

昭和35年チリ地震津波でも大きな被害が出た高浜・金浜は、国道45号はガレキのため不通、集落に車両が入れず孤立状態になった。高浜は国道45号が走る堤防を津波が越えて浸水し、高浜地区センターが全滅するなどバス路線沿いで被害が大きかった。高浜小学校は校庭まで浸水した。
金浜地区は、防潮堤が30mほど破損し、平坦地の住家がほぼ全滅し、江山寺も浸水、金浜神社の鳥居が倒壊した。

津軽石・赤前地区

津軽石地区は、防潮堤を越えて川を遡り、稲荷橋が水没した。法の脇地区もほぼ全家屋が流し、津軽石駅付近で列車が脱線した。津軽石出張所・津軽石公民館が全壊し、本町では全壊した住家や床上1.5mもの浸水となった。津軽石保育所が全壊したが、津軽石小学校は校庭の浸水にとどまった。津軽石川を遡上した波が、根井沢川に入り新町下地区にも被害がでた。
赤前地区は北から入った津波が運動公園を飲み込み、真っ直ぐ南へ進んだ。平坦部の住家を押し流し、大量のガレキが宮古工業高校のグラウンドに流れ込み、ふ化場まで浸水した。

堀内・白浜地区

釜ケ沢地区はほぼ全域が浸水し、小堀内・堀内・白浜地区も集落の半分以上が浸水した。地盤沈下のため満潮時や高潮で県道重茂半島線に海水が入るようになり、かさ上げ工事が行われている。

重茂地域は海洋に面するため、明治と昭和の三陸地震津波では大きな被害が出ている。明治と昭和の三陸地震津波では大きな被害が出ている。明治・昭和の二度とも全滅の被害を出した姉吉は、津波記念碑を建てて高台に居住し、東日本大震災の津波では最高津波遡上高40.5mを記録しながら流失家屋がなかった。
半島西側で宮古湾に面した白浜・浦の沢・追切の漁港、外洋に面した立浜・鵜磯・荒巻・重茂・音部・姉吉・千鶏・石浜・川代、全ての漁港に津波が襲来し、防潮堤や護岸を破壊、集荷・荷さばき場や冷蔵庫、水産加工施設、サケ・アワビ種苗生産施設などが全壊した。漁船の被害は市全体で2千629隻に及んだ。
住家は音部里と重茂里でほぼ流失した。重茂里の向渡橋が落橋し、姉吉・千鶏・石浜が孤立する事態となった。千鶏は県道重茂半島線の上野商店まで津波が到達し、石浜も集落の半分ほどが浸水した。鵜磯小学校は校舎1階、千鶏小学校は校舎2階まで浸水した。

04

行政の取り組み・復旧活動

情報通信機能のマヒや長引く停電により被害情報収集や災害対策の連絡調整に困難を極めたが、自衛隊、広域緊急援助隊、緊急消防援助隊、海上保安庁、米軍など関係機関と連携し、様々な応急対策を行いました。

田老防潮堤の被災状況を視察する岩手県・達増拓也知事と宮古市・山本正徳市長(2011年3月18日)

応急仮設住宅(2011年6月、田老)

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避難・避難所

避難所は最大時85か所、避難者数8,889人となりました。子どもたちが避難所のお年寄りを助け支えるなど、世代を超えた絆も生まれました。被災から1か月後の4月11日に魚市場再開、6月に浄土ヶ浜レストハウスが営業再開のニュースは大きな励みとなりました。

2011年4月の避難所(グリーンピア三陸みやこ)
※宮古市所蔵(撮影者:箱石松博氏)

2011年5月の避難所(グリーンピア三陸みやこ)
※宮古市所蔵(撮影者:梶山永江氏)

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災害支援

自衛隊や消防・警察による被災者の救出や行方不明者の捜索、がれきの撤去、支援物資の運送・給水・給食、地元の消防団や婦人防火クラブなどの活躍もありました。全国各地や世界からの応援・物的支援に大いに助られ励まされました。

国内外から多くの支援物資をいただきました(2011年3月24日撮影)

2011年7月に実施された激励演奏(アーカイブより)

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被災後の生活

被災後、最長で約3か月間の避難所生活を送り避難所から仮設住宅に移行した住民は、多くの復興支援事業などにより、徐々に笑顔を取り戻してきました。
仮設住宅における新たな地域コミュニティやサークル活動などをしながら、それぞれの復興を考え、日々の生活を送っていました。

立命館大学などの支援により2011年8月、鍬ケ崎に設置された仮設集会施設オデンセ2号(2014年7月撤去、アーカイブより)

2012年1月より、自治会、消防団、商店街等から選出されたメンバーで検討会を立ち上げ、地区ごとに復興まちづくり検討会を開催

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復興

「すまいと暮らしの再建」「産業・経済復興」「安全な地域づくり」を3つの柱に、復興の取り組みを進めました。生活再建支援や雇用の確保をはじめ産業再興、災害に強いまちづくり、防災・危機管理体制の再構築など、今も取り組みを進めています。

金浜堤防の 復旧の様子(2012年3月)

震災後はじめての養殖ワカメの本格出荷となった重茂の漁船(2012年3月)

※写真出典:岩手県「いわて震災津波アーカイブ~希望」